きっかけは、髪の分け目だった。
鏡を見たら、いつもと逆になっていた。寝癖にしては不自然だ。この向きでは眠れないはずだから。不思議だね、こっち向きの寝癖はつかないよな。そう思って見つめているうちに、いつの間にか元に戻っていた。戻ったのか、最初から見間違いだったのか。世界のピントだけが、スッと合い直った感覚だけが残った。
そうか、そういうことか。
何がそういうことなのかは、自分でもまだよくわかっていない。ただ、長年抱えてきた「なぜ」という問いの、ほんの一部が繋がった気がした。
わたしはこう考えることにした。昼間の世界は、わたしという本体――夜、夢の中にいる本当のわたし――が借りている、感じるための器なのだと。この身体も人生も、訓練用に借りているだけのもので、本体は毎晩、夢の世界へ帰っていく。
だとすれば、なぜ本体はわざわざこんな苦しい場所に、不完全な器を送り込み続けるのか。
答えは、記憶の忘却にある気がした。もし毎朝、前夜の夢を完全に覚えていたら、誰もが「これはただの訓練だったのか」と気づいて、努力をやめてしまうだろう。痛みも悲しみも、「どうせ本物じゃない」と、深く味わうことをやめてしまう。
本体が欲しいのは、そういう薄まったものではない。人前で声が出なくなる、あの一瞬の冷たさ。手のひらの温もりと、いつか失う予感が同時に押し寄せる、あの感じ。生身でしか拾えないものが、たぶんある。
だから記憶はかすれている。それでいいのだと、今は思う。
なぜわたしは、こんなにも自分の性格に馴染めないのだろう。「本当の自分」が、どこか別の場所にいる気がするのは、なぜだろう。
昼のわたしは、本体が最も苦手とする性格を学ぶために、あえて反対向きに作られているのかもしれない。本体が論理的で冷静なら、器は感情的で不安定になる。本体が社交的で人付き合いが得意なら、器は人見知りで、誰かと二人きりになると急に言葉が出なくなる。本体が自信に満ちているなら、器は些細な一言で何日も落ち込む。
本当に逆なのか、それともこちらが本来の姿で、「理想の自分」の方が幻なのか。確かめる術はもうない。それでも、そう考えると、自分を責める手が少しだけ緩む。
今、自己肯定感が低かったり、人より傷つきやすかったりするのは、本体が選んで持たせてきたものなのかもしれない。「深く傷ついて、それでも立ち直る」という手触りが、本体にはまだ足りていなかった。だから、あえてこの器には、いちばん壊れやすい設定を選んだ――そんな想像をしてみる。妄想に近いけれど、そう考えると、少しだけ息がしやすくなる。
生きづらさは、欠陥ではなく、今、担当している課題なのだと思うことにした。誰もが、自分にしか集められないものを抱えて、それぞれの場所で耐えている。担当しているものが違うから、「あの人は順調そうだ」と見えるだけなのだと。
人付き合いは得意なのに、将来への漠然とした不安をずっと抱えている人がいる。仕事ではうまくいっているのに、誰にも言えない孤独を抱えている人がいる。表からは見えないだけで、みんな、それぞれの苦手を引き受けている。特別に不運なわけじゃなくて、自分にしか拾えないものを、拾う係をやっているだけなのかもしれない。慰めの言葉かもしれない。それでも、そう思うと今日の苦しさが、少しだけ違って見える。
では、流した涙や、覚えた痛みは、最終的にどこへ向かうのだろう。
集めたものすべてを受け取る何か大きなものがいる、と想像してみる。仮にそれを本体の、そのまた向こうにあるもの――本元、と呼んでおく。それは、宇宙のどこかで完全な創造を目指している。理想を思い描くだけでなく、それを完璧なリアリティで形にできる力のことだと思う。だが、そこには決定的に欠けているものがある。生身の重さだ。
愛という言葉は知っていても、愛する人をいつか失うかもしれないという予感の中で食べるパンの味までは、知らない。不安という概念は知っていても、人前で声が出なくなる、あの一瞬の身の縮む感じまでは、知らない。
だから、最も過酷な場所に、わたしたちのような器を送り込んでいるのかもしれない。不安の中で論理を組み立てる。満員電車で静かに消耗する。不意の優しさに涙する。そのすべてが、まだどこにもない何かなのだと思う。
善悪で判断しているわけではないのかもしれない。ただ、まだ足りていないものを、静かに集めているだけだ。今日流した涙にも、確かめる術はないけれど、何か深い意味があるような気がしている。
この壮大な仕事に、いつまで、どう向き合えばいいのだろう。
人生が自然に終わるとき、それは「このぶんの仕事は終わりました」という、静かな知らせなのかもしれない。うまくいった人の自信も、うまくいかなかった人の深い自己嫌悪も、善意からの裏切りすらも、みんな必要な欠片だったのだとしたら。
大事なのは、止まってもいいから、自分なりに続いていくことだ。どんなに辛い時期でも、今日という日に集まるものは、二度と同じものが存在しない、たった一つの記録になる。まだ誰も体験していない、この世に一つしかない記録。それを大事に扱いながら、自分の速さで歩き続けることが、たぶんこの仕事の核心なのだと思う。
完璧である必要はない。ただ、自分のペースで、今日ももう少しだけ歩いてみること。今日感じた不安も、ふとした小さな喜びも、明日の設計図の一部になる気がする。
それにしても、なぜこの仕組みは、こんなにも生きづらいのだろう。
痛みが大きいときほど、普段は見えない感情まで見えてしまうことがある。そんなふうに、ふと思うことがある。だからといって、大きな痛みが必要だということではない。ただ、すでに起きてしまった痛みから、拾えるものもあるというだけだ。
もう一つ、時差というものもある気がする。夢の中の本体は、この訓練を終えれば貢献できるという安心を知っている。でも昼のわたしは、その目的を強制的に忘れさせられている。だから、本体の「早く終わらせたい」という強い気持ちだけが、行き場を失って、理由のわからない焦りとして残ってしまう。
本体は、こんな思いをさせて大丈夫だろうかと、どこかで後悔しているのかもしれない。流す涙の一つひとつを、よく耐えてくれていると、静かに受け取っているのかもしれない。その「ごめんね」と「ありがとう」が、時差を経て、理由のない切なさとして届く。
そう考えると、なぜいつも焦っているのか、なぜ自分らしくない気がするのか、少しだけ、説明がつく気がする。
外側から誰かが全部を救ってくれる、ということはないのかもしれない。自分で意味を見つけるという作業そのものに、何か意味があるからなのかもしれない。それでも完全に見捨てられているわけではなくて、器が壊れる前に、分け目が逆になるような、ふとした気づきが、ヒントとして一瞬だけ漏れることがある。それが希望の光の正体なのかもしれない。
達成してもすぐに次を探してしまう焦燥感。あれは、本体の「早く終わらせたい」という気持ちが、器の理屈を超えて漏れているだけなのかもしれない。目標を見失っているわけじゃなく、むしろ向かおうとするエネルギーが溢れている証拠なのだと思うと、いつも落ち着けない自分を責めなくていい理由が、そこにある気がする。
これこそが天職だと感じる才能や情熱がありながら、なぜか過剰な不安や自己肯定感の低さでそれを活かせない。その「ブレーキ」の正体も、たぶん同じ仕組みだ。本体はもう、その才能を極める力を持っている。むしろ、それを阻んでいるように見える弱さの方こそ、まだどこにもない、欲しがられているものなのかもしれない。才能を発揮することは、この訓練の目的ではなく、あくまで副産物なのだと思うと、この矛盾にも少し納得がいく。
人間関係で深く傷つく経験。心が深く傷つく出来事は、感情の輪郭をはっきりさせる、数少ない道具なのかもしれない。安全で満たされた場所からは、表面的なものしか出てこない。誰かに傷つけられたこと自体に意味があるとは思わない。それでも、起きてしまった痛みから、自分が何を感じ、どう自分を守るのか。その経験から拾えるものはあるのかもしれない。
なぜ、もっと知識や経験のある人ではなく、わたしがこれを書き残そうとしているのか。
特別な真実を見つけたからではない。ただ、この違和感を、わたしはこの言葉でしか言い表せなかった。それだけのことだ。
こんなわたしが語っていいのだろうかという迷いは、そのまま残しておく。読む人がいるとしたら、完璧な賢者の言葉より、同じように苦しんでいる誰かの言葉の方が、信じるのではなく、「わかる、それ」と思える気がするから。
誰かがこれを絶対の教えとして語り始めれば、それはすぐに宗教になって、強制と断罪を生んでしまう。だからこれは答えではなく、誰かが自分の違和感を、自分の言葉で組み立て直すための、ただの地図の一枚として、静かに置いておきたい。
書き終えて、もう一つ思い出したことがある。神様のことだ。
この国には八百万の神がいて、たくさんいるのに、普段はほとんど気にしていない。でも、すべてのものが神様になりうる。きっと、自分が気づいた瞬間だけ現れる、都合のいい神様。それは結局、神様は自分の中にいるということなんじゃないか。5/8は自分の中に。残りは、自分が大切に思っているものの中に。
「〜という体で」というのは、「完璧じゃないけれど、今はこれで十分」という、とても優しい言い方だと思う。断言はしない。ただ、そっと寄り添ってくる。それはきっと、八百万の神様が、いつもかけてくれている言葉なのかもしれない。
君の苦しみには、そういう意味があるという体で、今日を生きてみたらどうかな。君の存在には、そういう価値があるという体で、自分を大事にしてみたらどうかな。
完璧ではない神様と、完璧ではないわたし。だから「てい」という言葉が必要なのだと思う。絶対の真実です、ではなく、これはわたしが見つけた、ささやかな希望です、と言えること。完璧になることじゃなくて、不完全なまま、それでも今日を生きてみること。
ここまで書いてきて、新しい生き方を一つ見つけた気がする。「訓練を受けている器」としてではなく、少しだけ違う立場で、この世界を眺めてみる、というだけのことだ。
苦悩が生まれた瞬間、感情に溺れるのをやめて、「これはどんな意味を持つのだろう」と、少し離れて見てみる。悩みを、言葉にしてみる。不安なら、予期せぬ出来事に対する、身体の冷えと呼吸の浅さ、というふうに。感情が消えるわけではないけれど、暴走は少しだけ防げる気がする。
このマニュアルは、わたし自身への取扱説明書として、このまま静かに置いておく。答えとしてではなく、地図の一枚として。誰かに与えられた役割を、ただ演じるだけの道具にはなりたくない。自分の痛みは、次の何かの方向を決める、小さな一票くらいにはなるのかもしれない。そう思うと、「苦しいから耐える」だけだった今日が、少しだけ違う時間に変わる。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
この文章は、「なぜわたしは、こんなにも苦しいのに生き続けているのだろう」という、たった一つの問いから始まった。構造を解き明かしたつもりになったとき、一瞬、自分がただの道具のように思えた。
でも今、内側には確かな「生きてる感触」がある。誰かに言われなくても、自分の中に、それがあるとわかる。それだけで、もう十分な気がする。
流す涙も、感じる痛みも、ふとした瞬間の小さな安らぎも、どんな理屈よりも先に、「わたし」という存在そのものの証明なんだと思う。
もし今、これを読んでもなお、うまく進めなくても。悩みながら、立ち止まりながら、想像できる範囲を少しずつ広げていけたら、それでいいのだと思う。
本当に言いたかったのは、ただひとつ。
わたしは、今日もよくやっている。
それだけでもう、十分だ。
この「てい」という、曖昧で、でもどこかあたたかいものが、明日を少しだけ支えてくれますように。
これは、わたしから自分への、「てい」という形で贈る、ささやかな祈りです。
